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1956年 12月23日生〜2001年 4月25日没 | |
| F1デビュー | 1981年サンマリノGP | |
| 生涯戦績 | 194戦5勝 | |
| PP獲得数 | 2回 | |
| ファステストラップ | 4回 | |
| チャンピオン獲得数 | 0回 | |
1969年、ミケーレ少年は父親に連れられて初めてモーターレースを観た。その時彼の目の前で、マトラを駆る『ジャッキースチュワート』は、コースに飛び出したうさぎと衝突した。愛らしい小動物がバラバラに飛び散る光景は12歳の少年にとって十分残酷であっただろう。
翌1970年に2度目のモーターレースを観た時も、ミケーレ少年は恐ろしい光景を目の当たりにする。突然救急車のサイレンがサーキットに響き渡り、予選が中断された。この時、死後ワールドチャンピオンになったドライバーとして有名になる『ヨッヘン・リント』がめちゃめちゃに壊れたロータスのマシンの中で最後の瞬間を迎えていたのである。
『バーニー・エクレストン(当時リントのマネージャー)が片手にリントのヘルメットを持って、ゆっくり歩きながらピットに戻ってくる姿をよく覚えてるよ。その姿が印象に残って僕はこのスポーツをやろうと決めた。自分の命を失うかもしれないのに。』(アルボレート談)
この事故の翌日『クレイ・レガッツォーニ』がフェラーリのマシンでイタリアGPを制した。これを見て、命を懸けるにふさわしい栄光だと確信したという。
イタリアF3、ヨーロッパF3チャンピオンを獲得し、1981年に24歳でティレルからF1デビューを果たす。翌年にはF1初優勝を飾り、さらにその翌1983年には早くも2勝目を挙げる。
1984年、アルボレートは17年ぶりのイタリア人フェラーリドライバーに抜擢される。過去に『ロレンツォ・バンディーニ』がレース中に焼死して以来、フェラーリの総帥エンツォは『もうイタリア人ドライバーはフェラーリに乗せない』という誓いを立てたが、エンツォ自らその誓いを破ってまで抜擢した唯一のイタリア人ドライバーがアルボレートだった。フェラーリに移籍し、チームメイトの『ルネ・アルヌー』をすぐに凌駕すると、1985年にはマクラーレンの『アラン・プロスト』とチャンピオン争いを演じ、中盤戦まではタイトルレースをリードしたのである。
アルボレートは通算5勝しているが、88年を最後にチャンピオンシップの主役から脇役に回り、ティレル、ローラ、アロウズ、フットワーク、ふたたびローラ、そしてミナルディと下位チームを渡り歩き、14年間にわたり休むことなくF1とともに過ごしてきた。そんな彼も1994年にF1を引退する。
1995年、アルボレートはF1を離れDTM(ドイツツーリングカー選手権)に参戦。その後も1997年にはル・マン24時間でポルシェを駆り、優勝もしている。F1を離れてもレースに懸ける情熱はまったく衰えることはなかった。
そして2001年4月25日、アルボレートはル・マン24時間レースに備えて、アウディのマシンのテスト走行を行なっていた。だがストレートを走っていた時、タイヤが突然パンクし、マシンはコースを外れてバリアに激突し帰らぬ人となった。頭部と首を強打して即死状態だったという。
少年時代に観たモーターレースはいずれも残酷なレースだった。けっして美しい思い出はない。しかしその出来事が結果として少年の心を動かし、将来を決定づけることとなったのである。
親切で正直で、紳士的で人望の厚い人間だった。新人ドライバーにもけっして横柄な態度をとることなく、『クルマの調子はどうだい?今日はがんばりな』と、自分のほうから近寄っていき、優しい声を掛けていた。もう彼が優しい声を掛けることは二度とない。