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1957年11月20日生〜1985年 9月 1日没 | |
| F1デビュー | 1984年ブラジルGP | |
| 生涯戦績 | 20戦0勝 | |
| PP獲得数 | 0回 | |
| ファステストラップ | 0回 | |
| チャンピオン獲得数 | 0回 | |
1980年ドイツカートチャンピオンを獲得し4輪に進出。フォーミュラ・フォードで14戦9勝。その後F3にステップアップし、そして1982年から、決して戦闘力があるとはいえないマシンに乗って、ベロフは2年間F2選手権を戦っていた。2年間で優勝2回、表彰台に登ること5回。この才能をケン・ティレルは見逃さず、1984年からティレルチームのNO.2ドライバーとして抜擢する。ベロフはF1デビュー3戦目で早くも6位入賞を果たした。
'84年といえば、あのアイルトン・セナがF1にデビューした年でもあった。特に’84年のモナコGPは今でも語り草になっている。
大雨に見舞われたこのレースで、非力なトールマン(ベネトンの前身)のマシンに乗った新人セナは、当時最強のマクラーレン・TAGに乗る、王者『ニキ・ラウダ』をあっさりと追い抜き、もう1人の王者『アラン・プロスト』を追い掛け回していた。セナはプロストよりも1周につき4秒も速いペースで走行しており、あと3周もあればトップ走行のプロストに追いつく計算だった。しかし大雨のためレースは31周で赤旗中止。F1デビュー間もないセナは初優勝を惜しくも逃すこととなったが、人々は、『デビュー5戦目でこの活躍。やはりセナは天才だ』と賞賛した。だが、このレースで3位を獲得したベロフに注目すると、もっと興味深いものになる。
ベロフもまたF1デビュー6戦目の新人だった。ターボ全盛の時代のなか、非力なNAエンジンに乗った彼はレース中止時点でセナの背後13秒の位置につけていたが、彼のペースはセナのそれよりもさらに速かったのだ。あのままレースが78周まで続いていればセナはプロストに勝っていたと言われてるが、最後に勝ったのはベロフだったかもしれない。もし、そうなっていたら80年代のF1GPはもっと違うものになっていたかもしれないのだ。
しかし歴史はベロフのものにはならなかった。モナコGPでは惜しくも3位止まりだったが、このせっかくの3位入賞記録も後に公式記録から抹消されてしまった。これは、ベロフが所属していたティレルチームが悪質な車両規則違反をしたという判定を受けて、シリーズ全戦の記録を無効とする罰則を科せられてしまったからだ。
しかし、この年ベロフはF1GPと平行して世界耐久スポーツカー選手権にも参戦し、シリース9戦中5勝をあげてワールドチャンピオンとなっている。ドイツ人がFIAの世界タイトルを獲得したのはこれが初めてだった。
1985年、チャンピオンとして臨んだ世界スポーツカー選手権第7戦スパ1000kmで、ベロフは首位を走る『ジャッキー・イクス』のマシンに激しくチャージしていた。この『ジャッキー・イクス』は、ベロフが勝っていたかもしれない1984年のモナコGP競技長で、あの時に赤旗中止を決断した男だった。ベロフはイクスに対してかなり無理な追い越しをかけてオー・ルージュに向けて突っ込んだという。2台は接触しクラッシュ。ベロフのマシンは無残なまでに大破炎上し、無事に脱出したイクスは燃えあがるベロフを救出に向かったが、もはや彼になす術はなかった。ドイツ人として初めて世界チャンピオンを獲得した男は、わずか27歳でこうしてあっけなくこの世を去ってしまった。
もしかしたらセナに代わって歴史を作ったかもしれない男。
『レース史上に残る偉大なる”失われし才能”』として、今でもステファン・ベロフの名前をあげる者は多いという。