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1946年12月12日生〜 | |
| F1デビュー | 1970年イギリスGP | |
| 生涯戦績 | 144戦14勝 | |
| PP獲得数 | 6回 | |
| ファステストラップ | 6回 | |
| チャンピオン獲得数 | 2回 | |
エマーソンが初めてレースに出場したのはわずか5歳の時だった。生まれて初めて体験するレースで(自転車のレースだったが)、いきなり勝利を収めた。負けず嫌いの性格は幼いころから持ち合わせていた。
エマーソンはありとあらゆるスポーツにチャレンジした。サッカーをはじめ、ヨットレースなどにもチャレンジするが、どれもものにはならなかった。そして最後に辿り着いたのがバイクのレースだった。やがて、兄のウィルソンがカートレースを始めると、エマーソンは兄のメカニックを担当し、この時の経験を生かし、バイクのレースで、不必要な部品を外してスピードを上げる方法なども学んでいった。だが、父親がバイクで事故を起こしたことをきっかけに、エマーソンがバイクのレースを続けることへの風当たりが強くなる。
このためエマーソンは親に隠れてレースに参加するようになった。最初その話しを聞きつけた母親は、ホウキを持って部屋の中をグルグルと追いかけまわしたという。これはエマーソンが16歳のときのエピソードである。
1年後、エマーソンはカートに転向する。カートに乗るようになった彼はやがて市販車も運転するようになり、いちばん最初に友人のルノーを借りて出場したレースでは、見事クラッシュしてしまい友人の車を壊してしまったりもした。
その後エマーソンはヨーロッパに渡りフォーミュラ・フォードに参戦。その後F3では9勝を挙げ、1970年にはF2にまでステップアップする。その年、F2でのエマーソンの走りはロータスの総帥コーリン・チャップマンの目に留まり、1970年イギリスGPでロータスからF1デビューを果たす。
しかし、迎えたイタリアGPで、チームメイトの『ヨッヘン・リント』が非業の死を遂げてしまい、精神的なショックを受けたロータスチームは決勝レースを棄権し、次戦カナダGPも欠場。ようやくその次のアメリカGPで復帰。その復帰戦でエマーソンはF1デビューして間もないルーキなのにもかかわらずトップでチェッカーを受ける。
『コーリンがジャンプして帽子を投げるのが見えた。子供のころに、本や雑誌の写真で見た光景が目の前で再現されたんだ。それを私のためにやってくれているなんて、信じられなかったよ』(エマーソン・フィッティパルディ談)
翌年、エマーソンは史上最年少の25歳でドライバーズチャンピオンに輝いた。これはブラジル人として初めての快挙だった
更にその2年後の1974年、マクラーレンに移籍し、クレイ・レガッツォーニと熾烈な闘いに勝利し再びチャンピオンを獲得する。
1976年、兄のウィルソンが設立した『フィッティパルディチーム』に移籍し、世間をあっといわせるが、これは失敗におわってしまう。肝心のブラジルから資金が集まらず、結局フィッティパルディチームは挫折してしまい、1980年にエマーソンはF1から引退する。
その後の彼は活躍の場をアメリカに移し、ここから彼のレース人生の第2章が始まる。
IMSAのレースに出場しすぐにポールポジションを獲得したり、世界三大レースのひとつ、インディ500を制したりもした。インディのレースでは1989年にシリーズチャンピオンも43歳という年齢で獲得し、歳を重ねてもその情熱は衰えることはなかった。
『私は昔から負けず嫌いで、何でも一番にならないと嫌だった』
負けず嫌いで目立ちたがり、少年の心を失わず。
長いクシャクシャの髪は昔のまま。だがその顔には、たくさんの深い皺が顔に刻まれている。そしてその一つひとつが、単なる歳月以上の重みを感じさせるのである。変わったことといえば、レースの世界から身を引いた彼の走りをもう見ることが出来なくなったということだ。