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1950年 1月18日生〜1982年 5月 8日没 | |
| F1デビュー | 1977年イギリスGP | |
| 生涯戦績 | 66戦6勝 | |
| PP獲得数 | 2回 | |
| ファステストラップ | 7回 | |
| チャンピオン獲得数 | 0回 | |
ドライバーズ・チャンピオンシップを1度も獲得しておらず、記録だけを見てしまうと特に際立ったものではない。しかし今でもジルが人々の話題に上るのは、記録によるものでない事だけは確かなようだ。
4輪レースを始める前は、スノーモビルでカナダチャンピオンを獲得し、その後スノーモビル世界一決定戦で優勝してしまう程の腕前だった。
1973年フォーミュラ・フォードで4輪デビューし、1974年フォーミュラ・アトランティックにスッテップアップする。そしてジルの走りに深い感銘を受けた『ジェームス・ハント』の推薦で、1977年に3台目のマクラーレンでF1デビューを果たすが、その後レース出場の機会を失っていた。ところがフェラーリのエースであるニキ・ラウダが突然チームを離脱、ジルの運命が変わる。地元カナダで誰もが憧れるフェラーリドライバーとしてF1再デビューを果たすこととなる。
1979年ディジョンで行われたフランスGPでの走りは、伝説にもなっている。このレースでジルはルネ・アルヌーと抜きつ抜かれつの大接戦を演じていた。そしてレースは最終ラップ、ジルのフェラーリとアルヌーのルノーはホイールをぶつけ合いながらコーナーに飛び込み、一歩間違えばクラッシュ同然の状態でいくつものコーナーをクリアしていった。『馬鹿げている』、『危険過ぎる』と言う人もいたが、それ以上に多くの人が、あれこそが本物のレースだと褒め称えた。
1982年、ハーベイ・ポストレスウェイト博士設計のフェラーリ126Cは大幅戦力アップし、ジルはその年のチャンピオンを約束されたようなものだった。しかし第4戦サンマリノGPで、チーム・メイトのディディエ・ピローニが紳士協定を無視し、ジルの優勝を盗んでしまう。これに激怒したジルは続く第5戦ベルギーGPでピローニを叩きのめすべく予選に臨む。
そして予選2日目、ピローニがトップタイムを叩き出したのを見たジルはピローニの野望を打ち砕くため、人生最後のピットアウトをする。その時コース上にはマーチのヨッヘン・マスがいた。ジルが猛スピードで迫ってくるのを確認したマスは、レコードラインを譲るためマシンを片側に寄せる。この動きとほぼ同時にジルがステアリングを切った方向は、マスと同じ方向だったのである。マスのマシンのタイヤに乗り上げたジルのマシンは150mも空中をダイブし、その衝撃でジルの体はマシンから放り出され金網に叩きつけられてしまった。それは生身の体で耐えられる衝撃ではなかった。
1982年5月8日午前9時12分、この時からジル・ヴィルヌーヴは伝説のドライバーとなった。
常に120%、全身全霊のドライビングは何かオーラのような輝きを放っていた。その勇気、芸術的なマシンコントロール、限りないファイト、彼の走りは人々の心に例えようのない感動を刻みつけた。
『SAULT GILLES』サリュー・ジル(やぁ、ジル)
モントリオール郊外にあるカナダGPの舞台。そのスタート/フィニッシュラインにこの文字は描かれている。かつて『イル・ノートルダム・サーキット』と呼ばれていたこのコースは、ジルの死後、その才能と勇敢さを称え『ル・サーキット・ジル・ヴィルヌーヴ』と改名されることとなった。