
![]() |
1939年 6月 11日生〜 | |
| F1デビュー | 1965年南アフリカGP | |
| 生涯戦績 | 99戦27勝 | |
| PP獲得数 | 17回 | |
| ファステストラップ | 15回 | |
| チャンピオン獲得数 | 3回 | |
ジャッキー・スチュワートはF1そのものに対して史上稀なほどの影響を及ぼした。引退後も自身のチームを創設し、わずか3年で優勝に導いている。彼を語るには、あまりにも多くの出来事やエピソードがあるため、不本意だが、かなり省略して紹介しよう。
もともとは歳の離れた兄のジミーが、レースをやっていたが、運悪くレースで腕を骨折。これをきっかけに、ジミーはレースから足を洗い、代わってスチュワートがモータースポーツに手を染めるようになった。やがてスチュワートは、その天才ぶりをいかんなく発揮しF3を制覇。その後F1デビューを果たした彼は、一大センセーションを起こした。
デビュー戦の南アフリカGPでは6位、モナコ3位、ベルギー2位、イギリス5位、オランダ2位・・・。デビュー直後の最初の6戦で、いきなりこんな具合だった。驚異的な新人の登場である。
スチュワートはF1に安全性という概念を導入した最初の人物でもある。
スチュワートが現役だった当時のレースは死亡事故が絶えなく、ドライバーは常に死と隣り合わせだった。スチュワート自身、非常に危険なサーキットに出掛ける時は、自宅の小さな鏡をのぞき込み、
『無事生きて帰って、この小さな鏡を再びのぞき込むことができるだろうか?』
と考えたという。スチュワートが安全性を訴えたきっかけは、彼自身がレース中に九死に一生を得る事故を起こしたことと、他にもうひとつ理由があった。
あるとき彼は妻と一緒に、親しいドライバーを自宅の食堂に招き、ディナーをふるまう計画を立てたという。だが、いざ招待客のリストを作り始めて、2人は予想外の事実に直面する。この世に既にいないために、招待不可能なドライバーがじつに多かったのである。そのような理由から、臆病者と人に後ろ指を差されたりしながらも、レースの安全性向上を訴えつづけたのだった。
だが運命は残酷である。安全性向上に誰よりも力を注いできた彼は、皮肉にもチームメイトの死という形でキャリアの最後を締めくくる事になる。もともとスチュワートは、ちょうど100戦目となる1973年10月のワトキンスグレンGPで引退を予定していた。しかし、よりによってそのGPの予選において、チームメイトの『フランソワ・セベール』が死亡。スチュワートは決勝レースに出場することなく、その1週間後に、生涯参戦数99戦で引退したのだった。
最後に最も驚愕的なことを伝えねばならない。
『アルファベットを正確に並べろなんて言われたら、僕は100年かかってもできないと思う。』
スチュワートは並外れた天才であると同時に、字がなかなか読めないという難読症でもあったのだ。コンピューターとまで言われた、彼の理論的な考え方や、恐るべき記憶力などからは想像もできない。これこそパラドックス中のパラドックスである。