ジョディ・シェクター(南アフリカ)
1950年 1月29日生〜 
F1デビュー 1972年アメリカGP
生涯戦績 112戦10勝
PP獲得数 3回
ファステストラップ 6回
チャンピオン獲得数 1回

シェクター少年は11歳の時、父親との間で、『学校の成績が良かったらカートを1台買ってくれる』という約束を交わした。
シェクター少年はそれから猛勉強し、クラスでトップに近い成績で学校を終え、約束のカートを手に入れた。
学校を卒業したシェクター少年は父親のガレージで働きはじめ、ここでメカニカル面の知識を得ることとなり、やがて本格的なレーシングクラブに行くようになってその知識をさらに深めていった。

南アフリカでフォーミュラ・フォードのシリーズ戦が開始された頃、シェクターはローラで参戦し南アフリカ出身ドライバーとして最高位を記録している。報酬は1000ランドの現金とロンドンへの航空券。シェクターはヨーロッパへ移りイギリスのフォーミュラ・フォードシリーズに参戦し、やがてF3にステップアップする。

1972年、シェクターはマクラーレンに加わりヨーロッパF2選手権に参戦。当時のF2は才能の持ち主でごった返していた。事実そこには、『マイク・ヘイルウッド』、『カルロス・ロイテマン』、『ニキ・ラウダ』、『ジェームス・ハント』、『ジョン・ワトソン』、『ヨッヘン・マス』という錚々たるメンバーが名を連ねていた。
このF2での成績の褒美としてシェクターはマクラーレンから、ワトギンスグレンで行なわれるシーズン最終戦のアメリカGPで、マクラーレンの3rdドライバーとしてF1で走るチャンスを提供され、なんと、この時シェクターは初めて乗ったF1マシンで予選3番手を確保したのである。
シェクターは、翌1973年もマクラーレンで走ることを夢見るが、当時のマクラーレンにはシーズンを通して3台のマシンをエントリーさせるだけの資金力はなく、この年のシェクターのレース数は5戦に止まっている。だがシェクターはグランプリの合間を縫ってアメリカのF5000シリーズにも参戦し、ここでは見事勝利を収めている。

1973年、シェクターはティレルチームに移籍。チームメイトは、ワールドチャンピオンを3度獲得した偉大な『ジャッキー・スチュワート』だ。この年はスウェーデンGPで初勝利を挙げたのを筆頭に入賞9回を記録しドライバーズランキング3位でシーズンを終了。2年後の1976年にもドライバーズランキング3位で終了している。
1977年、ウルフチームに移籍し、開幕戦でいきなり勝利を収めるが、ドライバーズランキングは2位で終了。
なかなかチャンピオンを獲得できなかったが、ここで転機が訪れる。フェラーリの総帥エンツォ・フェラーリが自分のチームで走らないかと電話をかけてきた。かくしてシェクターはフェラーリで『ジル・ヴィルヌーヴ』とパートナーを組むことになる。このジルとの間のエピソードをひとつ。

ある時シェクターを乗せたジルの操縦するヘリコプターはフランス南部のゴツゴツした丘越えに挑戦。しかしここでバッテリーにトラブルが発生。これに対して操縦桿を握っていたジルは、一定の高度になるとエンジンを止めてヘリコプターを自然落下させ、高度が落ちすぎるとまたエンジンを回して高度を上げるという飛び方をしたという。シェクターとジルを乗せたヘリコプターは奇跡的に無事着陸したが、その後シェクターがジルに思いっきり文句を言い、2度とジルのヘリコプターには乗らないと叫んだという。

1979年、シェクターはついに念願のワールドチャンピオンをフェラーリで獲得。
チャンピオンを獲得したシェクターは次の年もフェラーリで走り、この年をもって引退する。引退後のシェクターは違う道を歩み、現在はエリートビジンスマンとして大成功を収めている。

シェクターを最後に、フェラーリドライバーのチャンピオンは21年後のミハエル・シューマッハーまで現われることはなかった。
『フェラーリ最後の王者』として長き間語り継がれ、永遠に続くかとさえ思われたこの称号も、時代は流れ20世紀最後の年に降りることになった。

BACK