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1949年 2月22日生〜 | |
| F1デビュー | 1971年オーストリアGP | |
| 生涯戦績 | 171戦25勝 | |
| PP獲得数 | 24回 | |
| ファステストラップ | 25回 | |
| チャンピオン獲得数 | 3回 | |
ラウダはF1に進出した時、現代の新人ドライバーと同じく『ペイ・ドライバー』(お金をチーム側に支払ってシートを得るドライバー)だった。自分の生命保険を担保に、当時の邦貨換算で約700万円を銀行から引き出し、返済は出世払いか、死亡した時という無謀なものだった。
当時のレース仲間に『返せるのかい?』と尋ねられたが、当のラウダは『返せるわけないじゃないか、こんな大金』と言い放ったという。しかし、ラウダは早い時期に全て返済している。自らにプレッシャーをかけて、そのエネルギーで道を切り開いていくタイプの人間らしい。若干22歳の時の出来事だ。
1975年に初のワールドチャンピオンを獲得し、翌1976年もラウダは大本命としてタイトルレースをリードしていた。だが8月、運命のニュルブルクリンクがやって来る。レース中、ラウダのマシンは突然コントロールを失ってしまう。マシンは回転しながら吹っ飛び、フェンスを破ってそこにあった岩に激突し、800度の炎に包まれてしまった。火傷は外部だけでなく、肺にまで大火傷をしてしまう酷いものだった。担ぎ込まれた病院では死を宣告され、家族と神父を呼び最後のミサを上げるほど無残なものだった。しかし、その不屈の精神から驚異的な回復をみせたラウダは、事故からわずか6週間後のイタリアGPでレース復帰する。耳と前頭部は酷く焼けただれ髪の毛も無くケロイド状態になっていた。しかし包帯に血をにじませながらも、この年のチャンピオン獲得を諦めていなかったのである。そして最終戦、ポイントリーダーのラウダはチャンピオンに最も近い場所にいた。日本で行われた最終戦は豪雨にみまわれ、これを危険と判断したラウダは、自らの意思でレースを棄権する。結果、チャンピオンはジェームス・ハントに奪われてしまった。
翌1977年、再びチャンピオンを獲得し前年の雪辱をはらすことに成功したが、もし1976年の最終戦を欠場しなかったら、チャンピオン獲得数は4に伸びていたに違いない。そしてそれから2年後、1979年カナダGPで、ラウダは1回目のフリー走行を終えた後に突然引退を発表する。彼はマシンから降り、ひとこと『以上、終わり』と言った。
しかし、それから3年後にマクラーレンで復帰し、1984年にチームメイトのプロストを0.5ポイント差で下し、再びチャンピオンに返り咲く。
最後にラウダが走りの才能以外でも凄かった出来事を少しだけ。
1985年、コース改修されたベルギーGPでは、修復されたアスファルトが暑さのため溶けはじめるという事件が起きた。このとき、ラウダはいちばん酷い箇所を視察し、『レースを中止にしよう』のひとことでレースを中止させている。
現在は、航空会社を経営するビジネスマンでもある。いやはや凄い男だ。