ネルソン・ピケ(ブラジル)
1952年 8月17日生〜 
F1デビュー 1978年ドイツGP
生涯戦績 204戦23勝
PP獲得数 24回
ファステストラップ 23回
チャンピオン獲得数 3回

ブラジルのテニスチャンピオンを父に持つ裕福な家庭に育ったネルソン・ソート・マイオールは、16歳の時に、カリフォルニアのカレッジに1年間テニス留学をしている。だが彼はこっそりエンジニアリングのコースに入り、そこでエンジンのことを学びはじめる。そして1年後、ブラジルに戻るとテニスをやらず、父親にばれないように母の姓、『ピケ』という偽名を使ってカートをやりはじめた。ネルソン・ピケの誕生である。

ある日ピケはブラバムチームのデザイナーだったゴードン・マレーに、『クルマを掃除する使い走りは要らないか?』と、いきなり自分を売り込んだ。これが後に黄金コンビと呼ばれたピケとマレーの最初の出会いだった。それから数年後、ピケとマレーはイギリスのサーキットで再会する。ピケはその頃すでに一人前のドライバーに成長していた。1978年にはイギリスF3チャンピオンを獲得し、同年、エンサイン・フォードというチームでF1デビューを果たす。
1978年の最終戦からブラバムチームに加入、翌年『ニキ・ラウダ』のNO.2としてとしてフル出場し、すぐにラウダ以上の速さを示し、若きピケは王者ラウダを押し出して名門ブラバムのエースの座をもぎとってしまった。

ピケの走りそのものは、昔からミスをせず、常に冷静沈着。条件さえ整えばいつでもトップクラスのスピードでマシンを走らせることができるという自負心があった。そうでなければ、PP24回、FL23回、ワールドチャンピオン3回という記録は到底達成できるものではない。
だが冷静な走りとはうらはらに、とても気性の激しい人間で、また毒舌家でもあった。それを物語るこんな出来事がある。
1982年のドイツGPで、エリセオ・サラザールというドライバーとレース中に接触した。その時ピケはマシンから降りるとサラザールの所へ駆け寄りヘルメットにパンチを見舞い、蹴りまで食らわせようとさえした。
また同じブラジル人でありながら、セナと仲の悪かったピケは、セナのことを『サンパウロのタクシードライバー』などと揶揄したり、それだけでは飽き足らず、『もしセナが乗ったマシンに乗らなければならない羽目になったら、乗る前にコクピットをよく消毒しなければならない』などとも発言し物議を醸した。

1980年代、ピケは押しも押されぬトップドライバーとしてF1に君臨したが、やがて時代は流れ世代交代の時はやって来る。
1991年、華々しいデビューを飾ったミハエル・シューマッハーがピケのチームメイトとして迎え入れられた。すでにドライバーとしてのピークを過ぎたピケには、この若武者をねじ伏せる力はなかった。かつてピケがラウダを押し出したように、シューマッハーに押し出される形で、この年を最後に引退宣言もなくF1からひっそりと姿を消す。

その後のピケは、タイヤ会社を運営しながらインディにも参戦するが、これは彼の運命を変えてしまうことなる。
インディに初参戦した1992年5月、インディアナポリスのスピードウェイにおいて時速354kmで走行中にスピンを起こし、大クラッシュしてしまったのである。クラッシュの衝撃でマシンは大破。彼は脚と踵を骨折、片方の足は粉砕骨折し、実際骨が全くないのと同じになってしまい選手生命を絶たれたしまう。
もう2度とステアリングを握ることはないと誰もが思ったが、その後、F3をドライブするまでに回復。きっと、『スピードと危険』という麻薬に憑りつかれてるのだろう。

『買い与えられたレースという玩具で僕は遊んでいるんだよ』
世間の事などどこ吹く風で、クルーザーでモンテカルロのハーバーから出航し、釣り糸を垂れていたり、あるいは潮の流れにまかせてクルーザーをそのまま漂わせたりと、ピケはまことに自由に生きている。そんな気ままな自由人ネルソン・ピケは、マンセル、プロスト、セナと並ぶ、80年代ビッグ4としてこれからも語り継がれるであろう。

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