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1934年 2月11日生〜 | |
| F1デビュー | 1960年モナコGP | |
| 生涯戦績 | 111戦6勝 | |
| PP獲得数 | 8回 | |
| ファステストラップ | 11回 | |
| チャンピオン獲得数 | 1回 | |
1956年に2輪の500ccでワールドチャンピオンを獲得。その後、'58年、'59年、'60年と3年連続で500ccと350ccの両タイトルを獲得し2輪の世界ではトップライダーだった。
1958年、サーティースはBBC主催のモータースポーツ部門の表彰式に出席。この時、フェラーリでF1のワールドチャンピオンシップを獲得したばかりの『マイク・ホーソン』と同席になり、ホーソンから
『4輪のレースは2輪のレースより簡単だ。君もどうだい?』
と誘われたのである。これをきっかけにサーティースは4輪の世界に踏み込むことになった。
サーティースは天性の才能の持ちぬ主で、しかも完成されたレーサーであることはすぐにわかった。1960年のF1デビュー2戦目で早くも2位入賞を成し遂げてしまうのだった。
1961年、サーティースが所属するロータスではチームの布陣を整えるに当たって、チームオーナーのコーリン・チャップマンはサーティースにNO.1の地位を与えた。しかも、『誰とコンビを組みたいか?』と訊ねたときにサーティースは『ジム・クラーク』を指名したため、1stドライバーがサーティース、2ndドライバーがクラークという実に奇妙な布陣ができあがる結果となった。これはアイルトン・セナやミハエル・シューマッハーが2ndドライバーになるようなものだった。
その後チームをいくつか渡り歩き、1964年にフェラーリでついにF1でもチャンピオンシップを獲得する。
さらにその後、1964年からF1に参戦していたHONDAチームに加入し、サーティースはHONDAが記録した2勝目を挙げることとなる。これはHONDAがコンストラクターとしての最後の勝利でもあった。
HONDAは1968年限りでF1から撤退。これに伴いサーティースもBRMに移籍し、自身の『サーティース・フォード』というチームを結成するがこれは失敗に終わってしまった。
『2輪(500cc)と4輪(F1)の両方でワールドチャンピオンシップを獲得するのは非常に稀なことで、自分の孫の代まで同じ偉業は2度と達成されないだろう。』(ケン・ティレル談)
サーティースは2輪と4輪の両方でチャンピオンの座に輝いた。1つのカテゴリーに集中しても王座につくのは困難なのだから、まさに偉大と言うほかない。
髪もいまではすっかり白くなった。しかし、ジョン・サーティースが時の流れと妥協したのは髪の色だけだ。髪の色以外は、かつていつもそうであったように、サーティースはピュアで、濃厚で、鋭いままである。