1960年代
技術革新

時代は1960年代に突入、マシンの主流はミッドシップエンジンとなり、フロントエンジンはすでに時代遅れなものとなっていた。
'61年に、エンジン規定がそれまでの排気量2500ccから1500ccに変更された。同時に安全規定もこの時初めて盛り込まれ、更にクローズドボディが禁止され、タイヤが露出したフォーミュラカーの形態が確定された。

'62年にはロータスがモノコックシャシーを開発。軽くて強度・合成にも優れるモノコックフレームは他チームのマシンを一夜にして時代遅れなものに追いやり、すぐにほとんどのチームがこの新しいフレームの採用に走った。

'64年、日本のオートバイメーカー、ホンダがF1に初参戦し、オートバイの技術を応用した高出力なエンジンを開発し、ハイパワー競争に拍車がかかった。極東の島国のオートバイメーカーが本格的な4輪自動車生産の経験もないままに開発したF1マシンは当時のF1界の大きな話題になった。

'66年からは排気量がいままでの2倍の3000ccへ引き上げられ、これにより多気筒化が進み、フェラーリ、ホンダ、ウェスレイク、マトラなど多くのV12エンジンが登場し、V12以外にもBRMチームからは水平対抗を上下に重ねたようなH型16気筒エンジンなるものも登場した。ただ、このH型16気筒エンジンは高出力を豪語していたが、重く複雑な機構が災いし、わずか2年で姿を消した。

'68年、F1史上に輝かしい記録を残すことになるV8エンジンの傑作、フォード・コスワースDFV(Double Four Valves)エンジンが、ロータスのマシンに搭載されて登場。強力なパワーこそなかったが、軽量コンパクトなDFVエンジンは、初めてのレースでいきなりその高いポテンシャルを見せつけた。予選で『グラハム・ヒル』がポールポジションを獲得すると、決勝レースでは『ジム・クラーク』が独走でDFVにデビューウィンを飾ったのだ。
翌'68年にはロータス以外にも、マクラーレンとマトラの2チームが新たにDFVの供給を受けることになった。この年は年間12戦のうち、フェラーリの1勝以外、全てDFVを使用する3チームが勝ち星を分け合い、ロータスの『グラハム・ヒル』がフォードとコスワースに初のタイトルをもたらした。

'69年、ついにフェラーリとBRMの12気筒勢以外は全てDFVユーザーで占められるようになった。そしてこの年開催された11戦全てでDFV搭載マシンが勝利を収め、マトラに乗る『ジャッキー・スチュワート』が初のワールドチャンピオンを獲得した。
その後DFVは10年以上もの間、グランプリに君臨することになる。DFVの登場により、マシン造りは単にハイパワーな時代に別れを告げ、トータルパッケージの時代へと突入する。

'60年代前半までF1のタイヤに求められていたものは単に耐久性だけだった。しかし'60年代後半、3リッター時代に突入すると、軽量化された車体に加え、3リッターエンジンによる高出力化により路面への駆動力の伝達が困難になり、タイヤに対してグリップの向上が求められた。そこで確実に駆動力を路面に伝えるために、タイヤの幅が広げられていき、更に路面との接地面積を増やすために、トレッドパターン(溝)が次第に小さくなり、後にトレッドパターンが全く無いスリックタイヤへと進化した。だがタイヤの進化だけでは、まだそのハイパワーを路面に伝達しきれず、更にタイヤを路面に押しつける力、コーナリングスピードの向上を追及した結果、空気力学の考え方にも変化が表れる。

初期のF1マシンの空力に対する基本的な考え方は、単に空気抵抗をいかに減らすかというものだった。タイヤが露出しているF1マシンで空気抵抗を減らすには、マシンの形は円筒形、つまり葉巻型に近づけていくことが理想と考えられていた。
'60年代後半に、エンジンレギュレーションが3000ccにまで緩和された。その結果、3リッターのハイパワーは路面に伝達しきれなくなった。この問題解決のためフェラーリがF1に初めて導入したのがウイングだった。ウイングの登場は、コーナリングスピードを飛躍的に向上させた。だが当時のウイングは気流に悪影響を及ぼさない非常に高い位置に設置されており、ステーの剛性に欠けるウイングそのものが脱落する事故が多発し、その後ウイングの高さや幅が厳しく制限される規定が作られた。

とにかくあり余るパワーを確実に路面に伝えたかった。そこで他にも、駆動力を4輪に分散させ効率良く路面に伝えようという4輪駆動車も試された。だが駆動力の問題は、タイヤやウイングの進歩によって解決に向かい、複雑なメカニズムの4輪駆動はついに定着することなく終わった。その後4輪駆動はレギュレーションで禁止されることになる。

グランプリ初期の'50年代には、安全性という概念はほとんどなかったが、'60年代に入り、ドライバーの背後にロールバーが装備され、またレーシングスーツ(この時代はただのオーバーオールだったが)にも不燃加工が施されるなど安全性の向上にも進化があった。'60年代後半にはシートベルトも普及し、ヘルメットもフルフェイスタイプに進化した。

『古き良き』といわれた時代は、すでに'60年代半ばで終わっていたのかもしれない。F1にもビジネス化の波が押し寄せてきたのだ。
それまでマシンの色は、イタリアなら赤、イギリスは緑、フランスは青といったように、それぞれナショナルカラーに塗られていた。
しかし'68年、ロータスのマシンはそれまでのブリティッシュグリーンではなく、見た目にも鮮やかなゴールドリーフカラーに彩られていたのだった。これがその後、長きに渡ってF1を支えることになるタバコマネーの登場であった。

 

西暦 出来事 ドライバーズ・チャンピオン コンストラクターズ・チャンピオン
1960年 クリス・ブリストウ事故死(第4戦)
アラン・ステイシー事故死(第4戦)
ジャック・ブラバム クーパー・クライマックス
1961年 加給器禁止、NA1500ccにレギュレーション改正
第7戦イタリアGPで観客14人が死亡
ヴォルフガング・フォン・トリップス事故死(第7戦)
フィル・ヒル フェラーリ
1962年 モノクックシャシー登場 グラハム・ヒル BRM
1963年   ジム・クラーク ロータス・クライマックス
1964年 ホンダ参戦
カレル・ゴーディン・ド・ボーフォール事故死(第6戦)
ジョン・サーティース フェラーリ
1965年 グッドイヤー、ファイヤストン参戦
ホンダ初優勝(第6戦)
ジム・クラーク ロータス・クライマックス
1966年 NA3000ccにレギュレーション改正
ジュゼッペ・ファリーナ交通事故死
ジョン・テイラー事故死(第6戦)
ジャック・ブラバム ブラバム・レプコ
1967年 ロレンツォ・バンディーニ事故死(第2戦) デニス・ハルム ブラバム・レプコ
1968年 ホンダF1活動休止
ウイングの登場
スポンサーカラー登場

ジム・クラーク、F2レースで事故死
ジョー・シュレッサー事故死(第6戦)
マイク・スペンス、インディ500で事故死
グラハム・ヒル ロータス・フォード
1969年 ハイ・ウイング禁止
ゲルハルト・ミッター事故死(第7戦)
ジャッキー・スチュワート マトラ・フォード

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